16. その他

2度目のハノイ

娘と2人でベトナムの首都ハノイに行ってきました。

せっかくの2人旅ということで、いろいろと考えた末、旧市街のB級グルメをめぐるウォーキングツアーに申し込んだところ、これが大当たりでした。
私たちが参加したのは、料理のプロ(アイさん)が案内してくれるというもので、アイさんの解説(英語です)を聞きながら、3人で夕方から夜にかけて旧市街を食べ歩きました
(ご参考までに「安南パーラー」という日本人が経営するカフェ経由で申し込みました)。

16:00に旧市街のカフェに集合し、ツアーの始まりです。

1.揚げバナナ

 冬のおやつのようです。路上で揚げたてをいただきました。

2.串焼の豚

 焼き鳥かと思ったら豚肉でした。アイさんから作り方を教えてもらいましたが、タレに漬け込み、炭火で焼くなど、結構手間がかかっているようです。これも路上グルメです。

3.ビアホイと揚げだし豆腐

 ビアホイとはハノイの生ビールで、普通のビールよりもアルコール度数がやや低めです。大きなタンクも見せてもらいました。つまみの揚げ出し豆腐も絶品でしたね。
 店内は男性客ばかり。アイさんいわく、「ここはハノイのメンズ・オフィスと言われています」とのこと。

4.揚げパン

 正確にはパンではなく、小麦をつかった棒状のもので、小さな店で揚げていました。
 店の前には行列ができていて、皆さん一人10本くらい買っていました。そのまま食べるだけでなく、フォーやおかゆなどに入れるのだそうです。

(アイさんのレストランでトイレ休憩)

5.民家で食べるフォー

 フォーも美味しかったのですが、何よりその場所にびっくり。自宅を一定時間だけ開放し、フォーを提供しています。お客は靴を脱いで店内(?)に入ります。
 フォーを食べているその横の部屋では、そこで暮らす子どもたちが遊んでいて、なんとも生活感あふれる「食堂」でした。

6.バインミー

 バインミーはフランスパンにチャーシューやパテ、野菜をはさんだサンドウィッチ。
 訪れた店(Banh Me 25)は旧市街の有名店とのことで、何といってもパンが美味しかったです。

7.チェー(伝統的なスイーツ)

 最後は暖かいスイーツで締めくくり。ゴマあんの入ったお餅のデザートと、あずき(正確には黒豆だそうです)のおしるこの2つを選びました。一見すると路面店のようでしたが、奥にカフェスペースがあり、こちらは女子ばかりでした。

いかがでしょうか。旧市街は普通に歩いても楽しいところですが、ガイドさんと行くB級グルメの食べ歩き、おすすめです。

 

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海野宿を訪ねて

年末の信州乗り鉄旅行(?)で海野宿(うんのじゅく)を初めて訪れました。
しなの鉄道の田中駅から15分ほど歩くと、立派なご神木のある神社があり、ここを曲がると写真のような町並みに出会いました。

海野宿は江戸時代には北国街道の宿場町として栄え、千曲川の氾濫で壊滅的なダメージを受けた田中宿に代わり、大いに栄えたそうです。
しかし、先ほど「15分ほど歩く」と書きましたが、明治時代に鉄道が開通する際、海野宿は駅の設置に反対したのですね。そして、輸送の中心が鉄道に移り、宿場町としての海野宿の役割は終わります。
もっとも、駅ができていたら、古い町並みは残らなかったかもしれないので、何が幸いするかわかりません。

海野宿が興味深いのは、宿場町としての役割を終えて衰退、というのではなく、むしろ、そこから別の役割を見いだし、大いに栄えるところです。

明治になると千曲川流域では製糸業が盛んになり、海野宿は養蚕業や蚕種業(蛾から卵を採取し、養蚕業者に提供する)で発展します。
当時、競争力のある日本からの輸出品は生糸と茶くらいしかなく、生糸は1930年代まで主要な輸出品として日本の近代を支えました。横浜の小学生(たぶん3年生)が今でも学校でカイコを育てているのは、産業としての養蚕が重要だったことの名残りかもしれません。

海野宿に話を戻しますと、明治政府の殖産興業の流れにうまく乗ることができたおかげで、町並みを歩くと、2階の天井が低い江戸時代の建物と、天井の高い明治時代の建物が混在していて面白いです。

一軒だけ開いていたソバ屋でおかみさんの話を聞くと、「少し前までは、このあたりにも製糸工場があちこちにあって、各地から働きに来ていた」とのこと。「少し前」がいつころかは定かではありませんが、1970年代くらいにはもう日本の養蚕業は衰退してしまい、海野宿の繁栄も終わります。
歴史的町並みが残ったのは、そのためでもありますが、昔より「売らない・貸さない・壊さない」の三か条が掟とされていたためでもあるそうです。

年末で観光客の姿はほとんどなく、静かな町並みを堪能しました。

 

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「国際都市」平戸へ

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かねてから訪れたいと思っていた平戸に
ようやく足を運ぶことができました(7/30)。

平戸は16世紀から17世紀の約100年間、
国際貿易港として栄えた歴史を持っています。
特にオランダ商館が置かれた1609年からは
「西の都」と呼ばれるほどの賑わいだったとか。

しかし、島原の乱(1637~38年)を経験した
江戸幕府は鎖国政策を強めます。
1641年に平戸のオランダ商館が閉鎖され
(長崎の出島に移転)、平戸は国際港としての
役割を終えました。

猛暑のなか、当時の痕跡を探して歩いてみると、
復元されたオランダ商館近くに、当時造られた
塀が残っていました。

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また、一休みした休憩所でいただいた地元銘菓
「カスドース」はカステラを加工した南蛮菓子で、
ポルトガルから伝わったものだとか。

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他にも、オランダの石造技術を用いた石橋や、
海中から引き揚げられたオランダ船の錨(いかり)、
日本伝来の井戸とは形の違う「六角井戸」など、
あちこちに当時の痕跡を見つけました。

 

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ウラジオストク訪問

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かねてから気になっていたこの町を
ようやく訪問することができました。

ウラジオストクは極東ロシアの港湾都市で
日本海を隔てた対岸に位置しています。
緯度は札幌と同じくらいです。

1860年に海軍基地として建設されて以降、
帝政ロシアの太平洋への玄関口として発展。
シベリア鉄道の開通でヨーロッパともつながり、
現在も沿海地方の中心都市となっています。

ソ連時代は軍事上の理由から閉鎖都市とされ、
立入禁止の時代(1952~1992)もありましたが、
今は基本的にどこでも自由に歩けます。

ご覧の写真のように、建物も歩いている人々も
どこかヨーロッパ的で、成田からたった2時間弱
のフライトで行ける場所とはとても思えません
(メーデーだったので、にぎやかでした)。

私がこの町に興味を持った理由の一つは、
日本との関係が深いことです。

1876年には早くも日本政府の貿易事務所が
置かれ(その後領事館に昇格)、ピーク時の
1920年頃には約6000人の日本人が住んで
いたそうです。

町の中心部には、旧領事館や旧横浜正金銀行、
旧朝鮮銀行など、当時の重厚な建物がそのまま
残っていました。

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(左が旧日本領事館、右が旧朝鮮銀行です)

また、第2次大戦後に抑留された日本人により
造られたホテルやスタジアムもありました。

そのような歴史的な話のほか、何といっても
目立つのは日本車です。
町を走る自動車のほとんどが日本の中古車で、
右側通行にもかかわらず、右ハンドルの車が
たくさん走っていました。

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日本食のほか、日本のお菓子やアニメなども
人気のようですし、当地の極東連邦大学には
日本学科があって、日本語だけではなく、
経済や文化を学ぶコースがあるそうです。

半日だけ日本語ガイドをお願いしたのですが、
彼女の大学時代の専攻は「源氏物語」との
ことでした。

いまの日本人にとってウラジオストクはあまり
馴染みのないところだと思います。
でも、ウラジオストクから見た日本は案外近い
存在なのかもしれません。

ロシア入国にはビザが必要なので、個人旅行が
難しいという印象があります。
しかし、代行業者を使えば大使館に行かずとも
ビザの取得ができましたし、この8月からは、
ビザ取得が簡単になるという情報もあります。
「2時間で行けるヨーロッパ」はおすすめです。

 

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日本の科学技術の失速

 

最初にお知らせです。
アドバイザーとして参加しているRINGの会が
今年も横浜でオープンセミナーを開きます。

このセミナーは、午前に1つ、午後に2つの
パネルディスカッションのほか、保険会社や
各種の営業関連のブースも数多く出ていて、
「保険販売業の文化祭」のような雰囲気です。

私も午前のパネルディスカッションに登壇し、
丸紅セーフネット監査役の栗山泰史さん、
弁護士の増島雅和さんとともに保険業界の
現在と未来を語り合うことになっています。

受付が始まりましたので、ぜひご参加ください。
(↓こちらからアクセスできます↓)
RINGの会 オープンセミナー

さてさて、今回取り上げたいのは、数日前に
NHKで観たこのニュースです。
NHKのニュースサイトへ

英国の科学雑誌「ネイチャー」が特別版で、
日本の科学研究の失速を指摘しました。

例えば、次のようなデータが示されています。

・世界のハイレベルな68の科学雑誌に掲載された
 日本の論文の割合は、2012年の9.2%から
 2016年には8.6%に低下

・世界のおよそ2万2000の科学雑誌に掲載された
 論文の総数は、2005年から2015年にかけての
 10年間で、世界全体では80%増加した一方で、
 日本の増加は14%にとどまり、日本は世界全体
 の伸びを大幅に下回っている

確かにNature Indexの各グラフを見ると、
米国、英国、中国、韓国と比べたグラフなどがあり、
この10年間の停滞ぶりがわかります。

調べてみたところ、ネイチャーによる指摘以前から
文部科学省は日本の科学技術力の現状について
2013年から取りまとめを行っていました。そこでも、

・論文数の伸び悩み(=世界シェアの低下)
・多くの分野において日本の順位が低下
・日本は海外にあまり学生を送り出しておらず、
 受け入れている学生も多くはない

などの指摘がみられます。
科学技術・学術政策研究所のサイトへ

日本では大学が論文の約7割を産出しています。
ただ、大学の研究開発費は2000年代以降の伸びが
海外に比べて低く、博士課程入学者も減りぎみで、
かつ、任期付きの若手研究者が増えています。

このところ毎年のようにノーベル賞受賞者を
輩出してきた日本ですが、このままでは世界に
ついていけなくなりそうで、危機感を覚えます。

※久しぶりに築地市場内「トミーナ」で奮発ランチ。
 わたり蟹のトマトクリームパスタです。

 

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知覧特別攻撃隊

 

保険流通の勉強会(RINGの会です)で鹿児島へ。
この機会に、前から訪問したかった知覧に行きました。
写真(左)のような武家屋敷の美しい町並みのほか、
特攻隊の出撃基地があった場所として知られています。

町から少し離れた場所にある知覧特攻平和会館には、
沖縄戦の特攻作戦で戦死した隊員の遺書・手紙などが
遺影とともに展示されていました。

特攻を作戦と呼ぶには抵抗がありますが、
作戦成功イコール死ですから、まさに「十死零生」。
それをわかっていながら飛び立った隊員たちの心情は
どのようなものだったのでしょうか。

遺書や手紙には、「必中必沈」「大命により征かん」
「立派に死ぬことこそ軍人の本分」といった言葉のほか、
「何の恩返しも出来ず、親不孝をお詫び致します」
「御両親様、決して人前では泣いて下さいますな」
などとあり、彼らと同じ二十歳前後の子どもを持つ
親として、胸が締め付けられる思いでした。

写真(右)は当時の軍の指定食堂だった「富屋食堂」を
復元したものです。食堂を経営していた鳥浜トメさんは
隊員たちから母親のように慕われていたそうです。
トメさんの証言を記録した映像にも心を打たれました。

知覧は鹿児島の中心からバスで1時間以上かかりますが、
機会があれば、ぜひ訪れていただきたいところです。

 

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街並みづくり100年運動

 

「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」ですか。
超長期債利回りの極端な低下はなくなったようにも
思えますが、そもそもこれは金融緩和なのでしょうか?

さて、少し前になりますが、夏の終わりに山形県の
金山(かねやま)という町を訪ねました。
かつては羽州街道の宿場町として栄えたところです。

金山町に入ると、写真のような切妻屋根に白壁の家を
あちこちで見かけました。
中には数百年の歴史を持つ建物もあるようですが、
多くはそれほど古い建物ではありません。

歴史ある町の取り組みというと、古い建物を保存し、
観光客を集めようというものが多いようです。

しかし、金山町の「街並み(景観)づくり100年運動」は、
普段の暮らしや風景を重視しています。

例えば、古い建物を保存するのにとどまらず、
切妻屋根に白壁の「金山型住宅」の建築を奨励し、
風景と調和した街並み(景観)づくりを行っています。

金山型住宅を建てると、町から助成金が出ます。
助成件数は約1500件に達しているとのことです。

とはいえ助成金の金額は50万円が限度ですから、
住民が100年運動に共感し、金山型住宅を選び、
建てているのでしょう。

金山型住宅によって美しい街並みをつくるとともに、
地元の木材を使い、地元の職人が建てるので、
地域振興にもつながります。

町内には金山型住宅のモデルハウスもありました。
「若い世代が住みたくなる家とライフスタイルの提案」
がコンセプトです。

金山町では「ドイツ研修」も継続的に行っています。
行政関係者だけではなく、地域の若手リーダーや
関係業界リーダーなど100人以上が、金山町に
よく似たスケールの街々を視察するのだそうです。

「街並み(景観)づくり100年運動」の「100年」とは、
100年かけて美しく住みやすい町を作ろうという
息の長い取り組みなのですね。

 

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鉄分の濃さを感じるとき

 

前回のブログ(マイナス金利政策の副作用)は
いつもよりアクセスが多かったようです。
果たして9月の日銀「総括的な検証」はどうなるか。

さて、今回は一転して夏休みモードですみません。
鉄分といっても栄養素ではなく、鉄道のほうです。

時々ブログに鉄道関連の写真を載せるので、
私が電車好きであることがうかがえると思います。

とはいえ、本物の鉄道ファン(?)に比べると、
知識も行動力もまだまだだと思います^^

それでも、自分で「鉄分の濃さを感じるとき」が
時々あります。

1.電車の走行音に反応してしまう

最近の新しいビルだと、すぐ隣りを電車が走っても
ほとんど何も聞こえず楽しくないのですが、
少し古い建物だと、電車の走行音が聞こえますよね。

電車の音が聞こえると、ついそちらを見てしまい、
周りの人に怪訝な顔をされてしまいます
(ちなみに音だけではなく、姿が見えても反応します)。

身近なところで思いつくスポットは、淡路町にある
某協会(損保ですね)のビルでしょうか。

先日もセミナーの講師を務めるため伺いましたが、
隣りに中央線や総武線がゴトゴトと頻繁に走る、
楽しいところです。

もちろん、電車が通るたびにスピーチが途切れたりは
しませんでしたので、ご安心ください。

2.窓側の席に座りたがる

通勤電車のベンチシートではなく、新幹線のような
座席配置の場合、私は好んで窓側の席を選びます。
窓からの景色をボーっと眺めるのが好きなのです。

数週間前に京急線の快速特急に乗る機会があり、
関東では珍しい、新幹線のような座席配置の電車でした。
これなら三浦半島からの長距離通勤も苦になりません。

ごくたまに困ったことが起こります。

日本の新幹線には、座席ごとに窓がありますよね。
ところが、古いタイプの特急や海外の新幹線などでは、
2列の座席で窓一つという配置も結構多いのです。

普通の人にとって、鉄道は単なる移動手段なので、
皆さん、かなりの確率でブラインドを下げようとします。

景色を眺めていたい私には、前(または後ろ)の人が
いつブラインドを下げようとするか、ドキドキものなのです。

前後の人がブラインドを下げようとしたら、どうするのか?
...ご想像にお任せいたします。

3.車内を見渡す

最近まで自覚していなかったのですが、あるとき指摘され、
気が付いた習慣です。

私は電車に乗ると、無意識に車内をチェックしているようで、
いつも乗る東横線の車両と、座席の特徴や窓の大きさ、
網棚の形、製造年や製造した場所、あるいは広告の傾向
などの違いを見つけては、喜んでいるように思います。

同じ4つ扉の通勤電車でも、よく見ると結構違うものです。

例えば、東京メトロの古い車両(東横線でも走っています)
の窓は、私の目線よりも低く、かつ、小さくて嫌いなのですが、
当時は地下鉄の窓は小さくていいという考えだったのかも
しれません。

珍しい車両に乗るとうれしくなります。
所要のため相鉄線に乗ったら、「パワーウィンドウ」「鏡」
のある電車が健在で、思わずニンマリしました
...これは鉄分がかなり濃いコメントかもしれませんね。

自覚しているだけで、これだけ思い当たるのですから、
無自覚な行動はもっとあるのでしょうね。

※写真は函館の市電です。

 

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函館五稜郭

 

夏休みに函館に行き、夜景や町歩きを楽しみました。

横浜と同様に、開港により大きく発展した函館ですが、
北洋漁業や造船業が厳しくなった1980年代あたりから
衰退がはじまり、近年では人口流出が著しいようです。

写真は五稜郭と、その中にある旧函館(箱館)奉行所です。

城好きではなくても、この不思議な形をした城郭を
ご存じのかたは多いと思います。

五稜郭は開港した箱館の要として置かれた箱館奉行所を
取り囲む城郭(土塁)として1864年に完成しました。
日本で初めての西洋式城郭です。

どうして幕末にこのような形の城ができたかというと、
設計を担当した蘭学者の武田斐三郎が、フランス軍艦から
伝わったヨーロッパ式の築城術を参考にしたためだそうです。

武田斐三郎は佐久間象山の西洋兵学塾で砲術や築城術を
学んだ人物ですから、従来の日本式の築城ではだめだと
考えたのかもしれません。

五稜郭には、大砲や小銃による銃撃戦を想定した工夫が
随所にみられます。

先端部を鋭角にすることで死角をなくし、侵入した敵には
十字砲火を浴びせることができました。

城郭の内部には大砲の標的になる高い建物を置かず、
大砲の衝撃を吸収できるように、石垣(土塁)は低く、
厚みがあります。

立地面でも工夫がみられます。
当時の大砲の射程距離を意識し、港から3km離れた内陸に
建てられました。近くを流れる亀田川の水も活用できます。

このような五稜郭ですが、その後戊辰戦争(箱館戦争)の
舞台となり、落城してしまいます。

新政府軍の軍艦の大砲は最新型だったので、
内陸に作った五稜郭にも砲弾が届いてしまいました。

しかも、「大砲の標的になりそうな高い建物を置かない」
と書きましたが、右の写真のように、箱舘奉行所の上部に
太鼓楼があり、これが艦砲射撃の標的となったようです。

最新型の城だったのか、時代遅れだったのか。
そんなことを考えつつタワーから城を眺めました。

 

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投票に行きましょう

 

英国の国民投票でまさかのEU離脱が決まりました。

以前ブログで討論型民主主義のことを書いた際、
いざ投票となると、十分な情報を持たないまま、
意思決定を迫られることが多いのではないかという
コメントをしています。

今回の国民投票ではどうだったのでしょうか。

ところで、投票結果は離脱が51.9%、残留が48.1%で、
その差は約127万票でした。

登録有権者数が約4650万人で、投票率が72.2%なので、
投票しなかった人が1200万人ほどいたことになります。

年代別の投票率はまだ発見できていませんが、
BBCによると、2015年の英国総選挙(キャメロン首相が
国民投票の実施を公約し、保守党が勝った選挙)では、
65歳以上の投票率が78%だったのに対し、
18~24歳は43%、25~34歳は54%だったそうです。

加えて、EU離脱に関する各種の世論調査では、
高齢層ほど離脱を支持し、若年層は残留を支持する
という結果がはっきりしていました。

「どうせ残留なんだから・・・」と投票に行かなかった
若年層がもし投票に行っていたら、結果が違っていた
という可能性が十分あるわけですね。

今回の結果を見ると、投票に行かなくて、今になって
後悔している英国の若年層が大勢いるのかもしれません
(あくまで推測ですが...)。

日本でも参議院選挙があります。うちの息子は、

「選挙権が18歳以上になったといっても、全体から見たら、
 たったの2%なんでしょう。他方で、お年寄りには選挙権が
 いつまでもあるんだから、老人の声ばかり反映されるよね」

なんてことを言いますし(でも選挙には必ず行かせます^^)、
最近お会いした某大学の先生も、

「何だか初めからあきらめているんですよね。気が付いたら
 今の憲法が自分たちの権利を弱める方向に変わってた、
 なんてことにもなりかねないのに」

などと寂しいことをおっしゃっていたのですが、
今回の英国の結果から、投票に行くことの重要性を
しっかり伝えたいですね。

※写真は数年前のものです。右はバイブリー。

 

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