16. その他

西村先生の訃報に接して

元大蔵省の銀行局長で早稲田大学名誉教授の西村吉正先生が亡くなりました(8日)。
西村さんといえば、住専問題の国会答弁という印象が強いかもしれませんが、私にとっては大学院時代の恩師として、大変お世話になったかたです。

私は2005年から2008年にかけて西村ゼミに所属し、先生に保険会社の破綻研究の指導をしていただきました。
ゼミでは毎回持ち回りで発表者を務めることになっていて、なんと先生もそのローテーションに入るという貴重なゼミでした。
そういえば2007年の春だったと思いますが、麻疹(はしか)が大流行して大学閉鎖となり、先生の自宅でゼミを行ったこともありました。

他にもいろいろと思い出がありますが、まずは先生のご冥福を心からお祈りします。

金融行政の敗因

西村先生の著作といえば、やはり1999年に出た「金融行政の敗因」を挙げたいと思います。
不良債権問題と対峙した金融行政の当事者が、退職のすぐあとに自らの体験を振り返るというのは、そう簡単ではなかったはずです
(成功体験なら別でしょうけど)。
しかし本書では、自らが関わった大和銀行事件についても、住専処理についても、きちんと振り返り、かつ、反省すべき点を整理しているところがすごいです。

久しぶりに読み返してみると、生保に関連して次のような記述がありました。

「あまり気づかれないが、このこと(=低金利政策)によって生命保険の仕組みに無理が生じていることは非常に重要な問題である。(中略)短期間ならともかく、こんなに長期にわたって異常な金利水準が続くと運営に支障を生じるのは当然である。」

「逆ざやによって生命保険会社の経営は危機に瀕しているが、これも低金利政策の副作用である。それによって経営が破綻し、保険加入者が損害を受けるならば、金融システム維持という根拠とは別の理由で、政策責任者たる国家が何らかの対応を迫られる問題である。」

当時の保険行政は大蔵省銀行局のなかにある保険部が担っていました。
生保の連鎖的な経営破綻は本書が出た後の2000年前後に起きるのですが、1994年7月から2年間銀行局長を務めたかたが「低金利政策の副作用」という言葉を使い、「国家が何らかの対応を迫られる問題」とまで語っているのは、考えてみれば相当踏み込んだ記述だと思います。

もっとも、当時の保険部は銀行局のなかにあったとはいえ、「関東軍」などと揶揄されていたことを踏まえると、別の見方もできるのかもしれません。
結果としては、銀行とはちがい生損保の破綻に公的資金が使われることはなく、しかも「異常」という認識だった低金利はより低い水準で常態化してしまいました。

※写真は2011年3月の最終講義です。
 「なまはげ」はゼミ仲間の懇親会だったかな…

 

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バンコク視察旅行

保険代理店の皆さんとバンコクに行ってきました。
RINGの会の行事ということで、プログラムの詳細をご紹介することはできませんが、現地の日本人経営者の苦労話や大手保険会社のマーケティング戦略など、まさに百聞は一見に如かずという感じでした。

富裕層と低所得層の格差

バンコクには巨大なショッピングモールがいくつもあり、どこも大勢の人でにぎわっていました。
バンコクを代表する巨大商業施設である「サイアムパラゴン」、中核テナントとして伊勢丹が入る「セントラルワールド」、日本人が多く住む地区に近い「エンポリアム」「エムクォーティエ」は、いずれも日本の一般的なショッピングモールよりも高級路線で、国際的なファッションブランドが揃い、銀行のプライベートバンキング専門店や高級外車の売り場もありました。食料品売り場も充実していて、成城石井のような雰囲気でした。

その一方で、バンコクには庶民的な町並みもいたるところにあり、路上には昔ながらの屋台が並び、10バーツ(約35円)で乗れるエアコンなしの古いバスが走ります(ドアを開けたまま走っていました)。日本人街からそう遠くない(南に3kmほど)ところにはバンコク最大のスラム街もあるそうです。

タイは王室を頂点とした階級社会、経済格差の大きい社会で、相続税などによる所得の再配分機能が弱く、格差が固定される傾向が強いようです。

バンコクの日本人街

タイに住む日本人は少なくとも7万人を超えていて、このうちバンコクの日本人学校に近いエリアに多くの人が集まって暮らしています。
このエリアは日本語の看板があふれていて、タイ語も英語も使わず、日本語だけで生活できてしまうところです。日本人向けのスーパー(UFMフジスーパーなど)があり、日本の食材は何でも手に入りますし、日本人向けの飲食店も数多くあります。医療サービスも充実しているそうです。
今回私たちがお世話になったグローバルサポート社(タイランド)の本業は、日本人駐在員向けの資産形成コンサルティングとのこと。確かにニーズはあるでしょうね。

タイ政府はロングステイも奨励しているようです。50歳以上の人は、銀行口座に80万バーツ(約280万円)以上の預金があれば1年更新のロングステイビザを取得できるので、移住するシニアの日本人が徐々に増えているとか。

デジタル化の進展

デジタル化の進展は日本以上かもしれません。
タイ政府が「タイランド4.0」というデジタル化戦略を進めていることに加え、今やバンコクであればスマホを持っていない人がほとんどいないほど急激に普及しました
(スマホを持っているのは富裕層だけではないということです)。

ある調査によると、タイ人の平均的なネット利用時間は日本の平均値よりもはるかに多く、FacebookやYoutube、LINEなどが好んで使われているようです。
キャッシュレス決済も急速に普及しつつあります。写真のナイトマーケットでもQRコードを見かけました。もともとのインフラが日本よりも脆弱なので、デジタル化で便利かつ安心できるサービスが登場すると、そちらにシフトしやすいのかもしれません。

 

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右足を痛めて感じたこと

右足を痛め、歩くのが不自由になって10日ほどたちました。
せっかくなので、東京近郊に住む私が、通勤・外出時に感じたこと、気が付いたことを残しておこうと思います。

優先席の世界

優先席に限らず、大変そうな人には席を譲るのが当然なのかもしれません。そうは言っても一般席はこわいので、努めて優先席に向かっています。
ただ、朝の電車はピークをずらしても混んでいるので、電車を選ばないとそもそも優先席に近づけないのですね(東急東横線の場合)。

それでは優先席にたどりつけば座れるかといえば、「座れることのほうが多い」といったところでしょうか。途中駅なので空席はなく、杖を持って乗ってきた私に気が付いてくれたかたは、ほぼ席を譲ってくれますが、全く気が付かない(少なくともそう見える)かたもいます。
なかには後ろからトントンとタッチして、「こちらへどうぞ」なんて言ってくれるかたもいて、先週はかなり辛かったので、これは涙が出るくらいうれしかったですね。
この気持ちを忘れないようにしたいです。

もっとも、一見すると大変そうに見えなくても、実は大変なかたもいるのでしょう。私だって、もし杖を持っていなければ、「なんでコイツは優先席に座っているんだ」と思われるだろうなあと、ついつい考えてしまうので、見るからに大変そうではない人があの席に座るのは相当なプレッシャーかもしれません。

優先席から見た朝の東横線は、高齢者が意外に少ない一方で、妊婦さんが目立ちます。
ところが新橋駅からの都営バスはシニアが多くて、むしろ席を譲ったりすることもありました(1回だけですが)。

地下鉄のバリアフリー状況

行動範囲が限られているので、あくまで私が体験した事例としてお読みください。

先週は100メートル進むのにものすごく時間がかかったうえ、階段なんかとんでもない(特に下り)という状態だったのですが、地下鉄やJRには苦しめられました。
まず、会社の最寄り駅(築地市場駅)に泣かされました。地上からの出入口が3か所あって、そのうち1か所にエレベーターがあります。たまたま会社から最も遠い出入口で、何とかたどり着いてエレベーターに乗ると、そこから改札口まで100メートル歩かなければなりません。古い駅ではないのに、なぜこんな構造なのでしょうか。

それから同じく都営の大門・浜松町駅では、JRに乗り換えようと地上に向かうエレベーターに乗ったら、途中から階段になっていて、あとは上がるのも下がるのも階段を使うしかありません。
こうした出入口は他にもいくつもあるようで、おそらくどこかにバリアフリールートがあるのだと思いますが、事前に調べておかないと大変なことになります。

都営ばかりで恐縮ですが、神保町駅では改札を入ろうとしたら、親切な駅員さんに、「ここは階段だけですが、もう一つの改札ならエレベーターがありますよ」と教えてもらったのはよかったのですが、その「もう一つの改札」が遠くて涙が出ました。
まあ、これは仕方がないのかもしれませんが、そもそも駅には下りのエスカレーターがあまりに少ないですね。東京メトロの大手町駅でしたか、せっかくエスカレーターが2つあるのに、どちらも上りでガッカリしたこともありました。

横断歩道を渡り切れるか

地上にも難所がいくつもありました。都心部の歩道は広いので、あまり困るようなことはなかったのですが、地元では歩道が狭いうえに起伏が激しく、段差も多いので、体力を消耗してしまいます。歩道って、どうして車道よりも高くなっているのでしょうか。

都心部は歩道が広いだけでなく、車道も広いので、信号が青のうちに横断歩道を渡り切れるかというプレッシャーを何度も感じました。
バリアフリー状況もそうですが、恒常的に歩くのが不自由なかたは、いつもこのような思いをしているのでしょう。横断歩道を渡り切れないなんて、考えたこともありませんでした。

そうそう、何をするにも時間がかかってしまうのには閉口しました。
特に雨の日は、杖と傘で両手がふさがってしまい、ただでさえ動作が遅いのに、電車やバスに乗るにしても、コンビニで買い物をするにしても、やたらと時間がかかってしまいます。当初はどうしても自分にイライラしてしまいましたが、これにはすぐに慣れました(周りには迷惑をかけているのでしょうけどね)。

 

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韓国に残る日本の建物(後編)

前編に続き、釜山と鎮海で見つけた日本統治時代の建物をご紹介します。

<鎮海の町並み>

鎮海(チネ)は釜山からバスで1時間のところにある港町で、桜の名所として韓国では有名です。
1910年代に日本海軍が建設した都市で、ロータリーから放射状に道が広がり、かつての郵便局(下の写真)や駅、楼閣のある料理店などのほか、古い日本家屋も結構残っていました。

「長屋通り」の日本家屋(下の写真)で印刷業を営む鄭基源さんと話をすることができました。
鄭さんによると、最初の持ち主は三島アイという日本人で、1階は文房具やタバコを扱い、2階は旅館として営業していたそうです。
鄭さんは60年前からこの家で印刷業やメダル製造などを行っていて、日本統治時代の鎮海の写真や、かつて鄭さんが使っていた活版印刷の活字などを見せてもらいました。

<釜山の乾魚物市場>

釜山の観光地として有名なチャガルチ市場(魚市場)の近くにある乾魚物市場の商店は、古い日本家屋をそのまま使っています。繁華街のなかで、この一角だけ時計の針が止まっているかのような景色です。
ただ、写真のとおり、かなり老朽化が進んでいますし、保存しようという動きもなさそうなので、再開発は時間の問題かもしれません。

<釜山駅近くの日本家屋>

釜山駅や日本領事館の近所でも古い日本家屋をいくつも見かけました。屋根を青く塗り固めたり、シートで覆ったりしていることが多いようです。古くなって瓦が落ちてしまうためでしょうか。
内部はおそらく畳ではなく、オンドル部屋(=床暖房)に変えていることが多いと思われます。
前編で紹介した「文化共感 水晶」のように保存状態のいい日本家屋は例外で、老朽化が進んでいる建物が大半でした。

いかがでしたでしょうか。
基本的にこれらは植民地時代に日本人のためにつくられた建物ですが、案内してくれた方々はどこか嬉しそうだったのと、再生した建物が若い韓国人に人気のスポットになっているのをみて、こちらもうれしくなりました。

 

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韓国に残る日本の建物(前編)

韓国に残る日本統治時代の建物を訪ねる旅をしてきました。
場所は日本に近い釜山と、日本海軍の拠点だった鎮海です。

当時の建物をめぐってみると、「歴史的な観点から保存しているもの」「文化的な価値を踏まえて活用しているもの」と、「単に建物としての機能を果たしていて、結果的に残っているもの」がありました。
論より証拠。写真をご覧ください。

<釜山近代歴史館>

植民地政策を担った東洋拓殖株式会社の釜山支店として1929年に建てられたもので、戦後はアメリカ文化院として使われていましたが、返還後の2003年に歴史館としてオープンし、近現代史の教育の場として活用されています。
訪れたときも校外学習の生徒たちが大勢いて、課題に取り組んでいました。

<臨時首都記念館>

1926年に慶尚南道の知事官邸として建てられたもので、その後、朝鮮戦争で釜山が臨時首都になった際、大統領官邸として使われました。
現在は朝鮮戦争当時の政治や人々の暮らしを紹介する展示館となっています。

<文化共感 水晶>

釜山にある1943年に建てられた日本家屋です。日本人観光客向けの料亭を経て、2016年に文化施設としてオープンしました。他の木造家屋と比べると、保存状態は非常に良好でした。
ロケ地としても有名なためか、若い韓国人に人気のスポットとなっているようで、皆さん思い思いのポーズで写真を撮りまくっていました^^

<旧百済病院>

1922年に病院として建てられたもので、釜山駅の近くにあります。もっとも、病院だったのは最初の10年だけで、その後は中華料理店や結婚式場などとして使われていたようです。
現在は内装をリノベーションしたうえで、1階がカフェ、2階がアートギャラリーとなっていて、カフェは若い人たちでにぎわっていました。

<ムルコンシクタン>

釜山にあるこのアンコウ料理専門店は、80年前に建てられた日本家屋で営業しています(韓国風に改装してあります)。
店主らしき女性に片言のハングルで「こちらは日本家屋ですよね」と聞いたところ、「いいものを見せてあげる(=私の意訳)」と2階の座敷を案内してくれました(下の写真)。

後編に続きます。

 

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東京医大の第三者報告書

年末に公表された東京医科大学の第三者委員会「第二次調査報告書」「第三次調査報告書(最終報告書)」を読んでみました
(ちなみに、年明けに文部科学省が再調査を指導したとのことで、これが「最終」ではなくなりました)。
東京医科大学のサイトへ

これまでに判明していた「属性調整(=女子および多浪生に不利な扱い)」「個別調整(=特定者に対して加点)」に加え、第三次調査報告書には、「医学科入試において問題漏洩が行われた疑いがある」「個別調整と東京医大への寄付金との間には、何らかの関連性があった可能性がある」「入試に関する依頼(仲介の依頼を含む)と、依頼を受けた者に対する謝礼との間には、何らかの関連性があった可能性がある」と、さらなる疑惑を提示しています。
さらに、看護学科の入試では、国会議員の依頼を受け、試験結果の上位29人を飛び越えて補欠者となり、最終的に合格となった事例を明らかにしました。

医学部人気のなかで、今回の件が東京医科大学および附属病院の事業運営にどの程度のダメージとなるのかはわかりません。
しかし、世の中の人々が何となく存在するのではないかと思っていた「裏口入学」が本当に行われていたということで、社会に対する悪影響はかなり大きいのではないかと考えています。

※富士山が雲に隠れてしまいました。

 

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2018年末のミャンマー

前回に続いてミャンマーの話です。

保険市場は黎明期

新聞報道によると、年明け早々にミャンマー政府が保険分野への外資企業の参入を認めると発表したそうです。
ミャンマーでは2012年まで国営の保険事業が市場を独占し、その後民間にも開放されたものの、外資の参入は例外(日系3社がティラワ経済特区限定の免許を取得)を除き、認められてきませんでした。
しかし、ミャンマーの人口(5000万人超)に比して保険市場の規模は非常に小さく、1人あたりGDPが同じような水準にあるカンボジアやラオスよりも普及率が低いようなので、外資導入によりテコ入れを図ろうとしているのだと考えられます。

ちなみに、スイス再保険の統計でミャンマーは調査対象外となっていますが、2017年から2018年にかけてミャンマー政府の保険アドバイザーを務めていたJICA齊藤氏(金融庁から派遣)のレポート(PDF)を読むと、これは規模の問題というよりは、統計が整備されていないためだと思いました。
レポートによると、保険監督に従事する職員は少なく、生保の責任準備金は直近年度の純保険料収入の10%といったもので、ソルベンシー規制は存在せず、保険会社には保険数理人が存在しないといった状況のようです。


※中央郵便局で見かけました

慢性的な交通渋滞

自動車保険もまだまだ普及していない状況ではありますが、ヤンゴンの市内はすでに自動車であふれていました。渋滞は東南アジアでも有数とのことで、ガイドブックにも「日中~夜は渋滞がひどい」なんて書いてあります(渋滞しないのは早朝と深夜だけという意味なのでしょう)。
人口が700万人を超える都市で、東京や大阪のような鉄道網がほとんど整備されておらず、南北を結ぶ幹線道路も見たところ2つしかないのですから、モータリゼーションが進めば慢性的な渋滞となるのは必然かもしれません。

町で見かける車の大半は日本車でした。
ミャンマーは右側通行の国なのに、走っているのは右ハンドルの日本の中古車ばかり。日本の中古車といえばロシアのウラジオストクを思い浮かべますが、2012年ころからミャンマーに向かったのですね。結果として、日本の中古車が渋滞を引き起こしているということになります。
ただし、昨年から右ハンドル輸入規制が入り、数年後には左ハンドルの車が優勢になっているかもしれません。バスについては、日本の中古バスが活躍していたのは昔の話で、ヤンゴンではすでに左ハンドルのバスに切り替わっていました。

なお、東南アジアの他の都市と違い、ヤンゴンではバイクが走っていません。バイクの走行が禁止されているとのことで、地方に行けばバイク天国なのかもしれません(未確認です)。


※環状線はリニューアル工事中でした

中国とインド

ミャンマーを地図で見ると、北東は中国と接し、北西はインドと接していることがわかります。これが端的に現れているのが食文化です。

ミャンマーの典型的な料理といえば、いわゆる「カレー」なのですね。私も滞在中、何回かカレー料理を食べました。
同時に麺料理も豊富です。朝食の定番はモヒンガーというスープ麺ですし、シャン族の料理店で食べた麺はあっさりしていて、日本にもありそうな味わいでした。

この地理的条件は、おそらく今後の経済発展にも影響してくるのでしょう。


※ホテルで食べたモヒンガーです

 

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ヤンゴンの近代遺産

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

ミャンマーの中心都市ヤンゴンへ

年末に休暇を取って、ミャンマーの中心都市ヤンゴンに行ってきました(ちなみにミャンマーの首都はネーピードーです)。
2011年の民政移管以降、経済発展著しいミャンマーを実際に見たかったことのほか、ヤンゴン(旧ラングーン)にはかつて英国の植民地だった時代の建物がたくさん残っているというのが魅力でした。

例えば上の写真に見えるコロニアル建築は、1900年に建てられたヤンゴン地域裁判所です(現役の裁判所には見えませんでしたが…)。
港に近いこの場所は第二次世界大戦で日本軍の爆撃を受けていて、この建物も裏側の一部が壊れたままとなっています。

こちらは同じパンソダン通りにある、1906年にユダヤ商人が立てた商業ビルです。
ミャンマーというと仏教国のイメージですが、当時のヤンゴンにはイギリス人が政策的に連れてきたインド人のほか、様々な国・地域から人々がやってくる国際都市だったことがうかがえます。

ただし、どちらのビルも、あまりメンテナンスをしないまま使い続けてきたため、かなり老朽化が進んでいました。
外見もそうですが、建物の中に入ると、当時のエレベーターが朽ち果てていたり、なんというか非常に悲しい状態でした。

近代遺産を後世に残す

ヤンゴンに植民地時代の建物が多く残っているのは、これらを積極的に保存しようとしてきたためではなく、ミャンマーの経済発展が遅れたため、過去のストックをそのまま活用してきたためです。でも、このままではこうした近代遺産は老朽化で壊れてしまうか、あるいは、経済発展に伴う再開発で消えてしまうかでしょう。

このような状況に危機感を持ち、保存活動をしているグループを見つけました。Yangon Heritage Trust(YHT)という団体です。私は今回、YHTが主催する近代遺産をめぐるウォーキングツアーに参加しました(ツアー費用の一部がYHTの活動資金となります)。
ガイド氏は、こうした活動を通じてミャンマーの人々に近代遺産の価値を理解してもらい、経済発展と歴史的建物の保存を両立させたいと語っていました。


※こちらは現役の中央郵便局

他方で、比較的規模の小さい歴史的建造物についても、単にそのまま使い続けるというのではなく、その建物の価値を生かして使おうという取り組みが徐々に始まっているようです。
例えば、昨年オープンした「Burma Bistro」というレストランは、植民地時代に建てられたビルの2階にあり、外見からは想像できないような、おしゃれで居心地のいい空間でした。


※入り口はこんな感じですが…


※食事もサービスもよかったです

 

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気仙沼を訪問

仙台で開かれた保険代理店の勉強会の翌日、三陸の気仙沼まで足をのばしました。

気仙沼は震災前の2007年に息子と2人で旅行をした思い出の地です。もちろん、津波で大きな被害を受けたことは知っていましたが、実際に行ってみて、港町の景色があまりに異なっていて、言葉を失いました。


※上が2018年、下が2007年です

震災から7年半がたちましたが、かつて宿泊した魚町地区の建物はまだ少なく、あちこちで工事が行われていました。
それでも、国の文化財となっていた米店の建物が復元されていたり、あさひ鮨(当時こちらで息子が漫画をもらいました)が仮店舗から抜け出し、新装オープンしていたりと、うれしい話もありました。


※あさひ鮨考案のフカヒレ寿司

5年に1度の国勢調査によると、気仙沼市の人口は2010年時点の73,489人から2015年には64,988人(▲11.5%)となり、その後も減少が続いています。
震災の影響で減っただけではなく、そもそも毎年800~900人ペースで減少が続いているのです。

しかも内訳をみると、65歳以上の人口は横ばいでして、高齢化が急速に進んでいます。市長の施政方針のなかにも、「とりわけ子どもの減少が数値だけでなく、日々の生活の中でも感じられます」とあるほどです。

そこには、震災からの復興とともに地方創生にも取り組まなければならないという厳しい現実がありました。

 

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スイス鉄道の旅

遅めの夏休みをとり、スイスに行ってきました。
このブログの読者の皆さんからは、スイスと言うと「バーゼル」「チューリヒ」という声が出そうですね。今回は仕事ではなく、結婚25周年の記念旅行ということで、ユングフラウヨッホなどアルプス観光を楽しんできました。

鉄道王国スイス

人よりやや鉄分の多い私には、スイスはとっても楽しいところでした。
九州と同じくらいの面積しかないのに、国鉄・私鉄合わせて約5300kmと九州の2倍もの鉄道網があり、どこに行くのも鉄道が便利です。スイス国鉄のサイトを使えば予定が簡単に立てられますし、駅の表示もわかりやすく、何より列車が時間通りに走っています。さすが時計産業の国です。


※車両に3か国語の表示があります

路線が密なだけでなく、運行密度もそこそこ高く、地方の路線でも1時間に1本は走っているようでした。
地方では「リクエスト・ストップ」という仕組みになっているところもあり、小さい駅はボタンを押さないと通過してしまいます。とはいえ、小さい駅でもそこそこ乗り降りがあって、私が乗った列車で本当に通過したのは1、2回だけでした。


※左に見えるのが「リクエスト・ストップ」のボタン


※ボタンを押して停まってもらいました(グアルダ駅)

氷河急行に乗車

スイスを代表する観光列車といえば氷河急行(Glacier Express)です。
スイス南西部のツェルマット(マッターホルンがあるところ)から南東部のリゾート地サンモリッツまで8時間かけてのんびり走ります。
どこかの国の何十万円もする豪華列車とは違い、料金はランチ込みで1万円弱でした(別途に乗車券が必要)。


※坂道をどんどん登っているところ

8時間というと長そうですが、大きな窓から見える景色は素晴らしく、変化があって飽きません。予約しておいたスイス料理のランチを食べ、乗り合わせたオーストラリア人の夫婦と話をしながら景色を眺めていると、あっという間に時間がたってしまいました。


※車内で暖かいランチを食べられるのはうれしいですね

登山電車

登山電車にも触れないわけにはいきません。
スイスでは、よくこんなところに鉄道を敷いたなあと感心するくらい、高いところにも鉄道があります。その代表選手がユングフラウ鉄道です。
世界中の観光客でにぎわうユングフラウヨッホに向かう鉄道ができたのは、なんと1912年。途中からはひたすらトンネルを通るのですが、当時の技術で硬い岩盤をくり抜くのは相当大変だったと思います。


※ここから標高3454mまで登ります

ユングフラウ鉄道をはじめ、登山電車では急勾配を登るため、しばしばラックレールを使っていました。
車両に歯車が付いていて、ギザギザのラックレールにかみ合わせて登っていく仕組みで、本物は初めて見ました。

都市ではトラムが活躍

チューリヒ、ベルンといった大きな町ではトラム(路面電車)が活躍していました。低床車がかなり普及しているようです。
乗車してあれ?と思うのは、チケットを見せたり料金を支払ったりする機会がないことです。信用乗車という仕組みで、いちいちチケットを確認しません。でも、ごくたまに検札があって、そこで無賃乗車だとわかると高いペナルティをとられます。


※チューリヒのトラムです

いかがでしたでしょうか。他にもルツェルンには欧州最大級と言われる交通博物館もありますし、鉄分の濃いかたは、ぜひスイスへ!

 

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