16. その他

「日本一小さな村」のその後

 

息子から余った青春18きっぷを譲り受け(奪い取り?)、
飯田線の旅を楽しんできました。

飯田線は愛知県の豊橋と長野県の辰野を結ぶ
全長195キロのローカル線です。
駅の数が多いこともあり、全線を一気に走破しようとすると、
各駅停車で6時間くらいかかります。

さすがにそれは厳しいというか、もったいないので、
大嵐(「おおぞれ」と読みます)駅で途中下車。

この駅を選んだのは、歩いて15分ほどのところに、
日本一小さな村として知られていた旧・富山(とみやま)村
(合併により、今は豊根村の一部)があるのを知ったからです。

8時過ぎに豊橋駅を出発した2両編成の各駅停車は、
途中の中部天竜駅で27分も停車したりしながら、
3時間後の11時15分に大嵐駅に着きました。
次は13時14分発まで電車がありません。

大嵐駅は静岡県浜松市にありますが、駅を出てすぐの、
天竜川にかかる立派なつり橋を渡ると愛知県です。
しばらく佐久間ダム湖に沿った道を歩くと、旧富山村の
集落が見えてきました。

戦前には1500人近い住民がいた時代もあったそうですが、
過疎化が進んだうえ、1955年に佐久間ダムができたことで
村の中心が水没し、1983年には日本最小の村となりました。

富山地区の中心部には、村役場(今は豊根村富山支所)や
郵便局、警察や消防の駐在所、旅館などがあり、
村として独立していた時代を彷彿させます。

階段を上がり、集落の中に入ると、立派な建物がありました。
人の気配がしたので話を聞いたところ、この「清山荘」は、
旧富山村が地域活性化のため30年前から取り組んできた
長期山村留学の拠点でした。

留学生は親元を離れ、清山荘で寝起きをともにし、
平日は地元の富山小中学校に通います。
山村留学の体験者は100人を超えるとのこと。
地元の子どもたちの刺激にもなったことでしょう。

しかし、残念な話を聞きました。
今年度いっぱいで富山小中学校が閉校してしまうため、
山村留学も3月で休止となるのだそうです。

富山地区の人口は「日本一小さな村」と呼ばれた時代
(約200人)から一段と減ってしまい、今や100人強です。
小中学校の児童・生徒数は18人(児童13人、生徒5人)で、
このうち山村留学の児童・生徒が11人を占めています。

丘の上にある小中学校に行くと、屋根のある運動場で、
7、8人の子どもたちが体操の練習をしていました。
学年を超えた活動のようです。

ただ、校舎の老朽化が進み、耐震工事が必要とのこと。
豊根村にも余裕はなく、廃校という道を選んだのでしょう。

中心部に戻り、富山地区でただ一つの商店へ。
何か食べるものはないか尋ねたところ、
「うーん、お菓子しかないなあ。誰も買わないからねぇ」
という返事でした。

ローカル線の旅は、どこかほろ苦いですね。

 

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家族で台北へ

 

今年の夏休みは家族で台北に行きました。
家族旅行としては3年ぶりの台北です。

ところで、日本を訪れる外国人旅行者数が
昨年初めて年間1000万人を超えました。
職場が人気観光地「築地」にあり、確かに
海外からの旅行者が増えたと感じます。

それでは、どこから来た人が多いのでしょうか。
中国人が増えたなあと思っていたのですが、
統計を見ると、最近のトップは台湾でした。

この半年間のトップ3を見ると、台湾(139万人)、
韓国(127万人)、中国(100万人)となっています。
韓国が前年をやや割り込む一方、台湾をはじめ、
アジア各国からの訪日数が急激に伸びている
というのが最近の傾向です。

ですから、中国人観光客が増えたなあと思っても、
実は台湾人である可能性も結構高いのですね。

今回、台北で感じたのですが、中国人と台湾人
ばかりでなく、日本人との区別も難しくなっています。
特に若い女性は外見だけではわからないですね。

反対に、日本からどこに出かけているかというと、
米国(ハワイを含む)、中国、韓国がトップ3です。
ただし、2014年の傾向としては、中国と韓国が減り、
台湾が大きく伸びています。

我が家がまさにそうですが、韓流ブームのころ
ソウルを訪れた層が、台湾に向かっているとか。
最近の日韓関係が影響しているのでしょう。

いずれにせよ、日本と台湾はかつてないほどの
大交流時代を迎えているようです。

※台湾に行ったら、小籠包とマンゴー氷です!
 (食べ物だけではなく、今回は故宮にも行きました)

 

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登米市登米町

 

タイトルを正しく読むことができるでしょうか?

正解は「とめし とよままち」です。
同じ漢字なのに、市と町で読み方が違います。

ちなみに、登米小学校は「とよま」、登米高校は「とめ」、
登米警察署は「とめ」、観光物産センターは「とよま」です。

しかも、市役所は登米町とは全く別の場所にあります。
地図では「登米」が2か所表示されていることもあり、
仙台からの高速バスも2系統あります。
乗り間違えそうですね。

どうしてこんなややこしいことになっているのかと言うと、
歴史的には「とよま」だったこの地を、明治政府の役人が
「登米」を「とよま」と読めず、間違えて「とめ」と読んでしまい、
そのまま修正しなかったのだそうです。

さらに、2005年に旧登米(とめ)郡の8町などが合併した際、
歴史の長い登米(とよま)町ではなく、最も人口の多い迫町に
市役所を置いたため、一段とややこしくなってしまいました。

私が訪れたのは登米(とよま)町です。
「みやぎの明治村」と呼ばれ、かつては北上川の水運で
大いに栄えたそうです。

写真のような立派な小学校(今は教育資料館)があり、
町のあちこちには立派な蔵が残っています。
明治初期にはなんと県庁も置かれていました。

ところが、明治23年に現在の東北本線が開通すると、
北上川の水運は急速に衰退してしまいます。
もちろん、だから昔の町並みが残ったとも言えるのですが…

ピーク時には1万人を超えていた登米町の人口は
今では5000人程度に減ってしまいました
(市役所のある迫町の人口は2万人を超えています)。
高齢化も進み、65歳以上が3割を上回っているとのこと。
これでは単独での生き残りは難しいと判断したのでしょう。

食堂で同席した地元のおじいさん曰く、

「古くなった昔の駅舎(=かつて軽便鉄道が走っていた)が
 最近まであったんだけど、市は財政が厳しいからといって
 壊しちゃったんだよね。今は○○っていう薬屋になってるよ。
 とよまに役所があったなら、保存したと思うんだけどねぇ」

と嘆いていました。
その裏には、歴史ある町が他所に吸収されてしまったという
寂しさがあるのかもしれません。

 

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台南の旅

 

連休中に台湾の古都、台南に行ってきました。

羽田から台北までは飛行機で約3時間。
そこから新幹線に乗れば、2時間弱で台南に到着です。

台湾は古来から中国の一部というイメージがありますが、
中国(清)に組み込まれたのは17世紀後半のこと。
日本は江戸時代です。

最初に台湾を統治(占有?)したのはオランダで、
東インド会社が17世紀前半に台南に城を築き、
商業・行政の中心としました。

そのオランダを破ったのが明の遺臣・鄭成功です。
大陸で明が滅び、清の勢力が拡大するなかで、
鄭成功は「反清復明」を掲げて抵抗したものの、
1661年に拠点を大陸から台湾に移しました
(近松の国性爺合戦ですね)。

しかし、鄭氏政権は1683年に清に敗れ、
以降、清が台湾を統治することになります。

このような歴史とは、今回、台南に行くことになるまで、
恥ずかしながら知りませんでした。

その後、19世紀になると、再び列強が進出するようになり、
明治維新後の日本も登場します。

清は台湾の重要性を踏まえ、統治を強化するのですが、
日清戦争で敗れ、日本の統治が50年間続きます。

1945年の日本の敗戦で、台湾は中華民国に編入され、
今度は大陸から移ってきた、いわゆる「外省人」が
行政の中核を占めることになります。

1949年には大陸で共産党に敗れた蒋介石が台湾に移り、
国民党による独裁体制が長く続きます。
民主化が進んだのはごく最近のことです。

ざっと台湾の歴史を眺めてみましたが、17世紀以降、
常に外部からの圧力や支配にさらされてきたことがわかります。

それにしても、台南の観光地はすごい人出でした。
この時期、中国も連休なので、おそらく大陸からの観光客が
多かったのではないでしょうか。

中国人観光客が増えたのは、2008年に国民党が政権に復帰し、
中台間の交流に力を入れてからのことです。
2010年以降、中国からの訪問者数は日本人を上回っています。

他方、この3月には中国と台湾のサービス貿易協定をめぐり
学生を中心とした大規模なデモが起きています。
日本ではあまり大きくは報道されなかったような気がしますが...

※左の写真はオランダが築いた安平古堡(ゼーランディア城)、
 右は大勢の人でにぎわう花園夜市です。

 

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大阪で「プチ発見」

 

週末に家族で大阪・神戸へ行ってきました。
二泊三日の家族旅行でも、それなりに発見があるものです。

妻が気に入ったのは法善寺横丁で食べた「おでん」。
関東でおでんと言うと、鍋に大根や竹輪、はんぺんなどを
入れて煮込む鍋料理のことを指しますよね。

大阪で食べた「おでん」はあの料理ではありません。
汁気が少なく、田楽味噌がたくさんついたものでした。
こちらがおでんのルーツなのだそうです。

たこ焼き屋も面白かったです。ホテルが心斎橋だったので、
近くのアメリカ村にたこ焼き屋が何店もありました。

たこ焼きがとろっとして美味しかったのもさることながら、
見ていると、若い女性が夜一人でたこ焼きを買いにくるのですね。
家族へのお土産なのか、遅い晩ご飯なのかわかりませんが、
たこ焼きが身近な存在なんだなあと、妙に関心してしまいました。

最後は阪急電車の話。

阪急は梅田がターミナル駅で、ここから京都方面、宝塚方面、
神戸方面に電車が向かいます。
ヨーロッパのターミナル駅(あるいは上野駅)を彷彿させます。

これら3方面の特急や急行はなんと同時に発車するのです。
噂には聞いていましたが、3つの列車が同じ方向に走る姿は
なかなか見られるものではありません。
しかも、しばらく並んで走るので、なんだかワクワクしました。

いずれも関西人にとっては当たり前のことかもしれませんが、
関東人の私たちには発見の連続でした^^

※左の写真は地下鉄心斎橋駅です。
 NHKの朝ドラ「ごちそうさん」でこの駅の話がありましたね。

 

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酒蔵見学に行きました

 

新潟での保険合宿(!)の際、「久保田」で有名な
朝日酒造の酒蔵見学をする機会がありました。

1830年創業の老舗ながら、徹底した品質管理と、
「久保田方式」と言われる限定販売戦略で、
淡麗辛口ブームの立役者となった蔵元です。

現地に着いて、まずその外観にびっくり(写真左)。
これまで見学した酒蔵のなかで最も近代的でした。
酒蔵というよりは工場といった趣です。

白衣と帽子、マスクを着用し、いざ蔵のなかへ。
精米から麹造り、酒母、もろみ、発酵、しぼりと、
製造工程に沿ってご案内いただきました。

最初の精米のところでは、削ったコメを見せてもらいました。
朝日酒造では、「酒づくりはコメ作りから」という考えのもとで、
原料の米の多くを地元の契約栽培農家から「無理を言って」
確保しているとのこと。
先日の「千曲川ワイナリー」と通じるところがありますね。

仕込みに使うタンクも、昔ながらの木桶ではありません。
ただ、考えてみれば、昔のやり方が何でもいいわけではなく、
高い品質を求めた結果、今のやり方にたどりついたようです。
最新の設備であれば、正確な温度管理も可能です。

とはいえ、杜氏の経験や勘は完全にマニュアル化できる
ものではないそうで、最新の設備と伝統技術の融合が
高品質の日本酒を生み出すのでしょう。

品質重視の考えは、2004年の中越地震でも発揮されています。
震災により、求められる酒質を得られないというトップの判断から、
仕込中の酒をすべて捨てるという決断をしたそうです。

いろいろと勉強になる酒蔵見学でした。

 

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種村直樹さん

 

久しぶりに丸善をのぞいたら、「種村直樹の鉄道旅行術」
という雑誌があり、思わず購入してしまいました。

ブログの写真などでお察しの通り、私は鉄道の旅が好きで、
中学生の時から友人と、あるいは一人で出掛けていました。
車窓から景色を眺めたり、知らない町をうろうろしたり、
まあ、鉄分のあまり強くない乗り鉄(?)でしょうか。

そんな私が1980年代に強く影響を受けた作家といえば、
もちろん宮脇俊三さんと種村直樹さんです。
特に種村さんは目線が若年層にも向いていて、
様々な著作で汽車旅の魅力を伝えてくれました。

種村さんの本には「質問があればお問い合わせ下さい」と
住所が掲載されていて、中学生の私が質問の手紙を書いたら、
本当に種村さんから丁寧な回答が送られてきました
(右の写真です)。

どうして質問の手紙を書こうと思ったのか、なぜこの質問なのか、
回答の手紙を読み返しても思い出せないのですが、
種村さんから返事がきた時の感動は忘れられません
(達筆すぎてよく読めなかったという記憶もあります^^)。

それにしても、読者との手紙による交流から、熱心な読者による
友の会(ネットワーク)ができ、そこから著作が生まれる。
ネットもメールもない時代に、このようなやり方を生み出したのは
すごいことですね。

「種村直樹の鉄道旅行術」にはご本人の執筆はなく、
長期療養中とのことです。回復をお祈りしています。

 

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千曲川ワインバレー

 

学生時代の友人に誘われて、長野県東御(とうみ)市で
ワイン用ブドウの収穫体験をしてきました。

彼の友人は5年前に「ぼんじゅーる農園」を開園し、
将来はワイナリーを作りたいと頑張っているかたでした。
今年の初収穫のお手伝いをさせていただいたというわけです。

帰ってからネットで調べてみると、
「千曲川ワインバレー」構想にたどりつきました。
エッセイストの玉村豊男さんが同名の本を出していたので
さっそく購入して読んでみました。

荒廃していた農地でワインぶどうを育て、ワイナリーで
良質な日本のワインを作り、世界に向けて販売する。
実際にやってみると難しい問題もいろいろあるようですが、
新しい農業の姿と言えそうです。

東御市には玉村さんのところを含めてワイナリーが3つあり、
「ぼんじゅーる農園」のように将来ワイナリーを目指す人も
増えているとか。
ナガノワインHPへ

観光客もやってきます。玉村さんのワイナリーには
カフェとショップがあって、なかなかの賑わいでした。
山やブドウ畑の美しい景色を見ながらのランチは最高です
(もちろん美味しいワインを飲みながら♪)。

昨年、山梨県の勝沼を訪れ、日本ワインの歴史に触れ、
ブログに「殖産興業はこれからかも」と書きました。
まさに新たな時代を感じた収穫体験でした。
ブログ「勝沼とワイン」へ

 

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夏の京都

 

歴史があまり好きではない中2女子(=うちの娘)を連れ、
京都に行きました。
少しでも関心を持ってもらうには、本物を見せようというわけです。

初日は平清盛つながりで、「三十三間堂」と「六波羅蜜寺」へ。
六波羅蜜寺の名前はマイナーですが、ここの宝物殿にある
「空也上人像(=口から阿弥陀仏が出ている像です)」や
「平清盛坐像」は、皆さんどこかで見たことがあると思います。

2日目は「金閣寺」「龍安寺」「天龍寺」など、室町時代のお勉強。
もちろん、寺社ばかりではなく、「伊右衛門サロンの贅沢かき氷」
などの特典付きです^^

そして最終日は大原へ。
娘は大原(特に寂光院)が最も印象的だったようです。
壇の浦の戦いで敗れ、息子の安徳天皇とともに入水したはずが、
不幸にも救い出されてしまった清盛の娘、建礼門院徳子のお寺です。

ところで、今回ふと気がついたのですが、かつてに比べると、
京都の観光地はずいぶん変わりましたね。

嵐山と言えば、以前はタレントショップとお土産屋ばかりでした。
今はタレントショップは一軒もありません。
お土産屋にしても、何でも売っているような店は少なく、
いずれも特色を出しています。

新京極もそうです。かつてはお土産屋ばかりでしたが、
今はゲームセンターやアニメショップが目立ちます。

私の想像ですが、京都観光の主役が修学旅行をはじめとする
若年層から、シニア層に変わったためではないでしょうか。
シニア層はタレントショップには足を向けないでしょうし、
お土産にも質の高いものを求めるでしょうから。

 

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沖縄の旅2013

 

春休みに家族で沖縄に行ってきました。

うちの子どもたちも大きくなったので、
今回はビーチリゾートの沖縄だけではなく、
那覇の市場や首里城、南部戦跡など
リアルな沖縄に触れることにしました。

現在の首里城は1992年に再建されたものです。
首里城の地下に陸軍総司令部が置かれていたため、
元の建物は沖縄戦で破壊されてしまいました。

南部戦跡のひめゆり平和祈念資料館では、
アニメ「ひめゆり」の上映がありました。
学徒の半数以上が沖縄戦で亡くなったそうです。

戦後も沖縄は苦難の道を歩みます。
本土から切り離され、米軍施政下に置かれました。
1972年に復帰してからも米軍基地が集中し、
滞在中も軍用機が頻繁に見られました。

沖縄にとって、戦争の記憶は過去のものではなく、
現在に続くものなのですね。
「主権回復の日」政府式典への抗議もわかります。

 

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