16. その他

スイス鉄道の旅

遅めの夏休みをとり、スイスに行ってきました。
このブログの読者の皆さんからは、スイスと言うと「バーゼル」「チューリヒ」という声が出そうですね。今回は仕事ではなく、結婚25周年の記念旅行ということで、ユングフラウヨッホなどアルプス観光を楽しんできました。

鉄道王国スイス

人よりやや鉄分の多い私には、スイスはとっても楽しいところでした。
九州と同じくらいの面積しかないのに、国鉄・私鉄合わせて約5300kmと九州の2倍もの鉄道網があり、どこに行くのも鉄道が便利です。スイス国鉄のサイトを使えば予定が簡単に立てられますし、駅の表示もわかりやすく、何より列車が時間通りに走っています。さすが時計産業の国です。


※車両に3か国語の表示があります

路線が密なだけでなく、運行密度もそこそこ高く、地方の路線でも1時間に1本は走っているようでした。
地方では「リクエスト・ストップ」という仕組みになっているところもあり、小さい駅はボタンを押さないと通過してしまいます。とはいえ、小さい駅でもそこそこ乗り降りがあって、私が乗った列車で本当に通過したのは1、2回だけでした。


※左に見えるのが「リクエスト・ストップ」のボタン


※ボタンを押して停まってもらいました(グアルダ駅)

氷河急行に乗車

スイスを代表する観光列車といえば氷河急行(Glacier Express)です。
スイス南西部のツェルマット(マッターホルンがあるところ)から南東部のリゾート地サンモリッツまで8時間かけてのんびり走ります。
どこかの国の何十万円もする豪華列車とは違い、料金はランチ込みで1万円弱でした(別途に乗車券が必要)。


※坂道をどんどん登っているところ

8時間というと長そうですが、大きな窓から見える景色は素晴らしく、変化があって飽きません。予約しておいたスイス料理のランチを食べ、乗り合わせたオーストラリア人の夫婦と話をしながら景色を眺めていると、あっという間に時間がたってしまいました。


※車内で暖かいランチを食べられるのはうれしいですね

登山電車

登山電車にも触れないわけにはいきません。
スイスでは、よくこんなところに鉄道を敷いたなあと感心するくらい、高いところにも鉄道があります。その代表選手がユングフラウ鉄道です。
世界中の観光客でにぎわうユングフラウヨッホに向かう鉄道ができたのは、なんと1912年。途中からはひたすらトンネルを通るのですが、当時の技術で硬い岩盤をくり抜くのは相当大変だったと思います。


※ここから標高3454mまで登ります

ユングフラウ鉄道をはじめ、登山電車では急勾配を登るため、しばしばラックレールを使っていました。
車両に歯車が付いていて、ギザギザのラックレールにかみ合わせて登っていく仕組みで、本物は初めて見ました。

都市ではトラムが活躍

チューリヒ、ベルンといった大きな町ではトラム(路面電車)が活躍していました。低床車がかなり普及しているようです。
乗車してあれ?と思うのは、チケットを見せたり料金を支払ったりする機会がないことです。信用乗車という仕組みで、いちいちチケットを確認しません。でも、ごくたまに検札があって、そこで無賃乗車だとわかると高いペナルティをとられます。


※チューリヒのトラムです

いかがでしたでしょうか。他にもルツェルンには欧州最大級と言われる交通博物館もありますし、鉄分の濃いかたは、ぜひスイスへ!

 

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相良(さがら)700年

早くも1週間たってしまいましたが、SLに乗って人吉(熊本県)を訪れました。

人吉は相良氏が鎌倉時代から明治維新までの約700年間も統治していたところです。
江戸時代の人吉藩の石高はわずか2万2千石。隣国には強大な薩摩の島津氏が存在し、1581年の水俣合戦では大敗を喫しています。その後も豊臣秀吉の九州征伐、関ヶ原の戦いと何度も存続の危機に直面しましたが、相良氏はしぶとく生き残りました。
なかでも関ヶ原の戦いでは、初めは石田三成の西軍に味方し、大垣城を守っていましたが、重臣の機転により東軍の徳川方に転じたおかげで、相良氏は所領を安堵されました。


※国宝の青井阿蘇神社

この機転をきかせた重臣は相良(犬童)清兵衛という人物です。清兵衛が情勢を見極め、西軍から東軍へ寝返ったおかげで、相良氏の統治は江戸時代になっても続きました。
まさに清兵衛は相良氏存続の立役者なのですが、話はそこで終わりません。

人吉城址の近くにある人吉城歴史館によると、清兵衛は藩のなかで大きな力を持つようになり、やがて藩主をも無視し、横暴でわがままな行動が目立つようになります。ついには藩主が清兵衛の悪行を幕府に訴え、清兵衛は江戸に召喚(その後弘前へ流刑)、残された一族は反乱を起こし、全員死亡したそうです。

人吉城址には今は石垣だけが残っています。


※人吉は焼酎も有名です

 

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東京五輪に思う

五輪関連のニュースをいくつかピックアップ。

東京オリンピック、祝日を移動して開会式前後を4連休、閉会式前後は3連休に…
五輪イヤーは休み拡大も スポーツ庁、柔軟対応を周知

ちなみに大会ボランティア募集要項によると、1日8時間程度、10日以上の活動が基本で、研修を複数回受ける必要があります。「ボランティア」ということで無給です。
10日以上という条件は社会人には厳しいでしょうし、真夏の五輪なのでシニアには過酷ですから、8万人を確保するためは大学生の参加を期待しているのでしょう。

もっとも、こんなニュースもありますね。「経済効果」はどこへ行ってしまったのでしょうか。
「期間中に夏休み」政府、首都圏企業に要請
東京五輪期間中は「ネット通販ひかえて」 前回はなかった混雑リスク、協力呼びかけ

極めつけはこれ。
東京五輪へサマータイム論 暑さ対策に腐心 官房長官は慎重

せっかく近所で開かれるオリンピック・パラリンピックなので協力しようという気持ちはあるにせよ、今になって国民全体が影響を受けるような「祝日の変更(これは決定ですよね)」「サマータイム(今のところアイディアのみですが)」といった話が出てきたり、ボランティアに参加しやすいように政府が大学のスケジュール変更を求めたりと、東京で開催するスポーツイベントにすぎないのに、いい加減にしてほしいという気持ちが先に立ってしまいます。
元号の変更・発表時期の件もそうですが、国民生活への影響を抑えるどころか、目的のためには国民を一斉に動かすことに何のためらいもないように感じてしまいまうのは私だけでしょうか。

それにしても暑いですね。2020年の夏はどうなることやら。

※シラスやパセリの落とし主が見つかったのか気になります。築地市場より。

 

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ベトナムから日本へ

再びベトナムの話で恐縮です。
ハノイから羽田への帰国便に乗ったら、フライトはANAだったのに、周りがベトナム人ばかりで驚きました。満席に近いエコノミークラスのお客の大半がベトナム人だったのです。
私の隣に座った女性は新宿の日本語学校に通うとのことで、食糧でも入っているのか、かなり重たい荷物を持っていました(棚に入れるのを手伝ったら、ズシッときました)。前の席の3人組は観光旅行らしく、「渋谷のどこどこに行きたい」なんて話をしていたようです(たぶん)。

在留ベトナム人が急増

それにしても、日本のキャリアでここまで日本人が少ない便に乗ったのは初めてでした。ちょっと気になったので、帰国後に関係ありそうなデータを探してみました。

法務省が3月2日に公表した外国人入国者数(確定値)によると、2017年に日本に入国したベトナム人は32万人で、前年より31%も増えたそうです(入国者全体では同18%増)。日本を訪れる外国人が5年前の3倍に増えているなかで、ベトナムからの入国者は5倍にもなりました。

これだけ増えれば日本へ向かう便がベトナム人ばかりとなっても不思議はありません。
ただし統計を見ると、中国をはじめ他国の場合には、入国者の9割以上が観光などの短期滞在者なのに対し、ベトナムの場合、短期滞在目的は入国者の57%にすぎないこともわかりました。

そこで、次に3月27日公表の在留外国人数の推移を見てみると、ベトナム出身の在留者が急激に増えたのはこの5年間のことでした。いまやベトナム人在留者(26万人)はフィリピンやブラジルよりも多く、中国(73万人)、韓国(45万人)とともにトップ3の地位を占めています。

地方の人手不足を埋め合わせ

在留資格別の統計を見ると、ここにも際立った特徴がありました。ベトナムからの在留者は「技能実習」「留学」の割合が75%(在留外国人全体では32%)を占めています。しかも「技能実習」は前年の4割も増えました。

つまり、多少の想像を交えて言うと、日本を訪れるベトナム人が急激に増えているのは、観光もさることながら、いわゆる「出稼ぎ」が多いとうかがえます。もしかしたら「留学」も、主目的はアルバイトで稼ぐことなのかもしれません。
さらに統計を見ると、外国人在留者の多くが大都市圏に集中する一方、「技能実習」の外国人(ベトナム人が5割弱を占める)はむしろ地方に多いので、地方の人手不足を来日したベトナム人で埋めている構図が浮かんできます。

私の乗った帰国便がベトナム人ばかりだったのは偶然かもしれません。しかし、最近も「技能実習生として来日したベトナム人が福島県で除染作業に従事」というニュースもあったことですし、日本とベトナムの関係を改めて考えるきっかけになりました。

 

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2度目のハノイ

娘と2人でベトナムの首都ハノイに行ってきました。

せっかくの2人旅ということで、いろいろと考えた末、旧市街のB級グルメをめぐるウォーキングツアーに申し込んだところ、これが大当たりでした。
私たちが参加したのは、料理のプロ(アイさん)が案内してくれるというもので、アイさんの解説(英語です)を聞きながら、3人で夕方から夜にかけて旧市街を食べ歩きました
(ご参考までに「安南パーラー」という日本人が経営するカフェ経由で申し込みました)。

16:00に旧市街のカフェに集合し、ツアーの始まりです。

1.揚げバナナ

 冬のおやつのようです。路上で揚げたてをいただきました。

2.串焼の豚

 焼き鳥かと思ったら豚肉でした。アイさんから作り方を教えてもらいましたが、タレに漬け込み、炭火で焼くなど、結構手間がかかっているようです。これも路上グルメです。

3.ビアホイと揚げだし豆腐

 ビアホイとはハノイの生ビールで、普通のビールよりもアルコール度数がやや低めです。大きなタンクも見せてもらいました。つまみの揚げ出し豆腐も絶品でしたね。
 店内は男性客ばかり。アイさんいわく、「ここはハノイのメンズ・オフィスと言われています」とのこと。

4.揚げパン

 正確にはパンではなく、小麦をつかった棒状のもので、小さな店で揚げていました。
 店の前には行列ができていて、皆さん一人10本くらい買っていました。そのまま食べるだけでなく、フォーやおかゆなどに入れるのだそうです。

(アイさんのレストランでトイレ休憩)

5.民家で食べるフォー

 フォーも美味しかったのですが、何よりその場所にびっくり。自宅を一定時間だけ開放し、フォーを提供しています。お客は靴を脱いで店内(?)に入ります。
 フォーを食べているその横の部屋では、そこで暮らす子どもたちが遊んでいて、なんとも生活感あふれる「食堂」でした。

6.バインミー

 バインミーはフランスパンにチャーシューやパテ、野菜をはさんだサンドウィッチ。
 訪れた店(Banh Me 25)は旧市街の有名店とのことで、何といってもパンが美味しかったです。

7.チェー(伝統的なスイーツ)

 最後は暖かいスイーツで締めくくり。ゴマあんの入ったお餅のデザートと、あずき(正確には黒豆だそうです)のおしるこの2つを選びました。一見すると路面店のようでしたが、奥にカフェスペースがあり、こちらは女子ばかりでした。

いかがでしょうか。旧市街は普通に歩いても楽しいところですが、ガイドさんと行くB級グルメの食べ歩き、おすすめです。

 

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海野宿を訪ねて

年末の信州乗り鉄旅行(?)で海野宿(うんのじゅく)を初めて訪れました。
しなの鉄道の田中駅から15分ほど歩くと、立派なご神木のある神社があり、ここを曲がると写真のような町並みに出会いました。

海野宿は江戸時代には北国街道の宿場町として栄え、千曲川の氾濫で壊滅的なダメージを受けた田中宿に代わり、大いに栄えたそうです。
しかし、先ほど「15分ほど歩く」と書きましたが、明治時代に鉄道が開通する際、海野宿は駅の設置に反対したのですね。そして、輸送の中心が鉄道に移り、宿場町としての海野宿の役割は終わります。
もっとも、駅ができていたら、古い町並みは残らなかったかもしれないので、何が幸いするかわかりません。

海野宿が興味深いのは、宿場町としての役割を終えて衰退、というのではなく、むしろ、そこから別の役割を見いだし、大いに栄えるところです。

明治になると千曲川流域では製糸業が盛んになり、海野宿は養蚕業や蚕種業(蛾から卵を採取し、養蚕業者に提供する)で発展します。
当時、競争力のある日本からの輸出品は生糸と茶くらいしかなく、生糸は1930年代まで主要な輸出品として日本の近代を支えました。横浜の小学生(たぶん3年生)が今でも学校でカイコを育てているのは、産業としての養蚕が重要だったことの名残りかもしれません。

海野宿に話を戻しますと、明治政府の殖産興業の流れにうまく乗ることができたおかげで、町並みを歩くと、2階の天井が低い江戸時代の建物と、天井の高い明治時代の建物が混在していて面白いです。

一軒だけ開いていたソバ屋でおかみさんの話を聞くと、「少し前までは、このあたりにも製糸工場があちこちにあって、各地から働きに来ていた」とのこと。「少し前」がいつころかは定かではありませんが、1970年代くらいにはもう日本の養蚕業は衰退してしまい、海野宿の繁栄も終わります。
歴史的町並みが残ったのは、そのためでもありますが、昔より「売らない・貸さない・壊さない」の三か条が掟とされていたためでもあるそうです。

年末で観光客の姿はほとんどなく、静かな町並みを堪能しました。

 

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「国際都市」平戸へ

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かねてから訪れたいと思っていた平戸に
ようやく足を運ぶことができました(7/30)。

平戸は16世紀から17世紀の約100年間、
国際貿易港として栄えた歴史を持っています。
特にオランダ商館が置かれた1609年からは
「西の都」と呼ばれるほどの賑わいだったとか。

しかし、島原の乱(1637~38年)を経験した
江戸幕府は鎖国政策を強めます。
1641年に平戸のオランダ商館が閉鎖され
(長崎の出島に移転)、平戸は国際港としての
役割を終えました。

猛暑のなか、当時の痕跡を探して歩いてみると、
復元されたオランダ商館近くに、当時造られた
塀が残っていました。

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また、一休みした休憩所でいただいた地元銘菓
「カスドース」はカステラを加工した南蛮菓子で、
ポルトガルから伝わったものだとか。

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他にも、オランダの石造技術を用いた石橋や、
海中から引き揚げられたオランダ船の錨(いかり)、
日本伝来の井戸とは形の違う「六角井戸」など、
あちこちに当時の痕跡を見つけました。

 

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ウラジオストク訪問

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かねてから気になっていたこの町を
ようやく訪問することができました。

ウラジオストクは極東ロシアの港湾都市で
日本海を隔てた対岸に位置しています。
緯度は札幌と同じくらいです。

1860年に海軍基地として建設されて以降、
帝政ロシアの太平洋への玄関口として発展。
シベリア鉄道の開通でヨーロッパともつながり、
現在も沿海地方の中心都市となっています。

ソ連時代は軍事上の理由から閉鎖都市とされ、
立入禁止の時代(1952~1992)もありましたが、
今は基本的にどこでも自由に歩けます。

ご覧の写真のように、建物も歩いている人々も
どこかヨーロッパ的で、成田からたった2時間弱
のフライトで行ける場所とはとても思えません
(メーデーだったので、にぎやかでした)。

私がこの町に興味を持った理由の一つは、
日本との関係が深いことです。

1876年には早くも日本政府の貿易事務所が
置かれ(その後領事館に昇格)、ピーク時の
1920年頃には約6000人の日本人が住んで
いたそうです。

町の中心部には、旧領事館や旧横浜正金銀行、
旧朝鮮銀行など、当時の重厚な建物がそのまま
残っていました。

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(左が旧日本領事館、右が旧朝鮮銀行です)

また、第2次大戦後に抑留された日本人により
造られたホテルやスタジアムもありました。

そのような歴史的な話のほか、何といっても
目立つのは日本車です。
町を走る自動車のほとんどが日本の中古車で、
右側通行にもかかわらず、右ハンドルの車が
たくさん走っていました。

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日本食のほか、日本のお菓子やアニメなども
人気のようですし、当地の極東連邦大学には
日本学科があって、日本語だけではなく、
経済や文化を学ぶコースがあるそうです。

半日だけ日本語ガイドをお願いしたのですが、
彼女の大学時代の専攻は「源氏物語」との
ことでした。

いまの日本人にとってウラジオストクはあまり
馴染みのないところだと思います。
でも、ウラジオストクから見た日本は案外近い
存在なのかもしれません。

ロシア入国にはビザが必要なので、個人旅行が
難しいという印象があります。
しかし、代行業者を使えば大使館に行かずとも
ビザの取得ができましたし、この8月からは、
ビザ取得が簡単になるという情報もあります。
「2時間で行けるヨーロッパ」はおすすめです。

 

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日本の科学技術の失速

 

最初にお知らせです。
アドバイザーとして参加しているRINGの会が
今年も横浜でオープンセミナーを開きます。

このセミナーは、午前に1つ、午後に2つの
パネルディスカッションのほか、保険会社や
各種の営業関連のブースも数多く出ていて、
「保険販売業の文化祭」のような雰囲気です。

私も午前のパネルディスカッションに登壇し、
丸紅セーフネット監査役の栗山泰史さん、
弁護士の増島雅和さんとともに保険業界の
現在と未来を語り合うことになっています。

受付が始まりましたので、ぜひご参加ください。
(↓こちらからアクセスできます↓)
RINGの会 オープンセミナー

さてさて、今回取り上げたいのは、数日前に
NHKで観たこのニュースです。
NHKのニュースサイトへ

英国の科学雑誌「ネイチャー」が特別版で、
日本の科学研究の失速を指摘しました。

例えば、次のようなデータが示されています。

・世界のハイレベルな68の科学雑誌に掲載された
 日本の論文の割合は、2012年の9.2%から
 2016年には8.6%に低下

・世界のおよそ2万2000の科学雑誌に掲載された
 論文の総数は、2005年から2015年にかけての
 10年間で、世界全体では80%増加した一方で、
 日本の増加は14%にとどまり、日本は世界全体
 の伸びを大幅に下回っている

確かにNature Indexの各グラフを見ると、
米国、英国、中国、韓国と比べたグラフなどがあり、
この10年間の停滞ぶりがわかります。

調べてみたところ、ネイチャーによる指摘以前から
文部科学省は日本の科学技術力の現状について
2013年から取りまとめを行っていました。そこでも、

・論文数の伸び悩み(=世界シェアの低下)
・多くの分野において日本の順位が低下
・日本は海外にあまり学生を送り出しておらず、
 受け入れている学生も多くはない

などの指摘がみられます。
科学技術・学術政策研究所のサイトへ

日本では大学が論文の約7割を産出しています。
ただ、大学の研究開発費は2000年代以降の伸びが
海外に比べて低く、博士課程入学者も減りぎみで、
かつ、任期付きの若手研究者が増えています。

このところ毎年のようにノーベル賞受賞者を
輩出してきた日本ですが、このままでは世界に
ついていけなくなりそうで、危機感を覚えます。

※久しぶりに築地市場内「トミーナ」で奮発ランチ。
 わたり蟹のトマトクリームパスタです。

 

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知覧特別攻撃隊

 

保険流通の勉強会(RINGの会です)で鹿児島へ。
この機会に、前から訪問したかった知覧に行きました。
写真(左)のような武家屋敷の美しい町並みのほか、
特攻隊の出撃基地があった場所として知られています。

町から少し離れた場所にある知覧特攻平和会館には、
沖縄戦の特攻作戦で戦死した隊員の遺書・手紙などが
遺影とともに展示されていました。

特攻を作戦と呼ぶには抵抗がありますが、
作戦成功イコール死ですから、まさに「十死零生」。
それをわかっていながら飛び立った隊員たちの心情は
どのようなものだったのでしょうか。

遺書や手紙には、「必中必沈」「大命により征かん」
「立派に死ぬことこそ軍人の本分」といった言葉のほか、
「何の恩返しも出来ず、親不孝をお詫び致します」
「御両親様、決して人前では泣いて下さいますな」
などとあり、彼らと同じ二十歳前後の子どもを持つ
親として、胸が締め付けられる思いでした。

写真(右)は当時の軍の指定食堂だった「富屋食堂」を
復元したものです。食堂を経営していた鳥浜トメさんは
隊員たちから母親のように慕われていたそうです。
トメさんの証言を記録した映像にも心を打たれました。

知覧は鹿児島の中心からバスで1時間以上かかりますが、
機会があれば、ぜひ訪れていただきたいところです。

 

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