あけましておめでとうございます。
横浜は例年になく暖かい新年です。
年末に岡山県の備中高梁を訪れました。
ここにある備中松山城は、天守が現存する
12城のうち最も高いところにある城だそうです。
最近では「天空の城」として、竹田城とともに
城マニアの人気を集めているとか。
旅の醍醐味は現地での出会いです。
たまたま出会った当地の皆さんだけではなく、
歴史上の人物との出会いもあります。
寿司屋のカウンターで地元のかたと語らうと、
幕末に活躍した山田方谷(ほうこく)のことを
誇らしげに紹介されました。
山田方谷は幕末の備中松山藩の学者で、
財政破綻に陥っていた松山藩を立て直し、
藩政改革を果たした人物です。
当時の松山藩の財政は、4万両の収入に対し、
7万両を超える支出という状態で、借入金が
10万両に達していたそうです。
方谷は当時の藩主である板倉勝静の要請で
農民出身でありながら藩の要職(元締役)に就き、
様々な改革を行って、見事に財政を立て直しました。
彼の改革は負債の整理(いわば会社更生法)や
倹約令だけではありませんでした。
例えば、藩札問題への対応です。
当時の松山藩に限らず、藩の財政が逼迫すると、
財政補填策として藩札が乱発されることになり、
物価の高騰や信用不安を招くことになりました。
そこで方谷は、信用を失っていた藩札を回収し、
新たに準備金の裏付けのある藩札を発行することで
殖産興業の基盤づくりを行いました。
殖産興業のため「撫育方(ぶいくがた)」を設置したのも、
長州藩の先例があったとはいえ、斬新な発想でした。
藩で生産した「備中ぐわ」「ゆべし」などの特産品を
江戸で直接販売し、利益を上げたのです。
武士が商人となり、藩が商会となるこの取り組み、
あるいは、先に紹介した藩札問題への対応をみると、
方谷が貨幣経済の進展を的確に捉えていたことが
わかります。
童門冬二「山田方谷」にはこんな話も出ていました。
「自分は王陽明の学問を学んでいるが、王陽明を
全人格的に尊敬しているわけではない。王陽明は
たしかに中国の名臣だが、その性格からかなりの
失敗もしている。そういう点は私は学ばない」
日本人の価値観は短絡的で、「学ぶ人」と決めると、
その人を全人格的に呑み込まなければいけないような
気風があるところを、方谷はクールに見極めている。
長岡藩の改革で有名な河合継之助(=方谷に学んだ)は、
方谷のこのような考え方に感動したそうです。
山田方谷という人はもっと知られてもいい人物だと
思いました。
※写真左は備中松山城。右は藩校の跡地です。
※いつものように個人的なコメントということでお願いします。
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