週末(10月19日)開催のRIS(全国学生保険学ゼミナール)九州ブロック報告会(中間報告会)に続き、次の週末は日本保険学会の全国大会(日曜日に登壇します)、その後も台北でのカンファレンスやJARIP研究発表大会、日本アクチュアリー会の年次大会など、大きな行事が続く季節となりました。その合間を縫って、ちゃっかり念願の軍艦島上陸を果たしました
(前回2019年7月は台風の影響で上陸できませんでした)。
軍艦島は通称で、正式には端島(はしま)と言い、長崎港から約18kmの海上にあります。ツアーでいただいた資料によると、19世紀初頭に石炭が発見され、1890年(明治23年)に三菱が経営権を取得。海底炭鉱の島として日本の近代化を支えたそうです。
出炭量が増えるにつれて人口も増え、1916年(大正5年)には日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパート(30号アパート)が完成し、その後も集合住宅が次々にできました。1960年(昭和35年)ころには5000人以上の人々が暮らしていたというから驚きです。「人口密度が高く、顔見知りが多かったため、犯罪が少なかった」とか、「緑が少なかったので屋上庭園を造ったり、隣りの島に行って土に触れたりした」といったエピソードもうかがいました。
※トップの写真は端島小中学校
こちら(下)は大正5年の30号アパート
しかし、エネルギー革命で石炭の需要が減り、炭鉱は1974年(昭和49年)1月に閉山。3か月後には無人島となり、そこから約50年がたっています。2015年に世界文化遺産に登録されたものの、風雨にさらされ続けた建物はボロボロで、ガイド氏によると「毎年形を変えている(=崩壊が進んでいる)」とのことでした。なかでも大正5年の30号アパートは、いつ崩れてもおかしくない状態なのだそうです。
そのため、島に上陸できるのはツアーに参加した人だけで、歩ける場所も南西の限られた場所だけでした。
先週(10月15日)清水建設が、端島炭鉱の保存・整備・公開活用のため長崎市と連携協定を結んだというニュースがありました。第1弾として研究拠点を設置し、その後具体的な取り組みを詰めていくそうです。
しかし、これだけ劣化した建物をどうやって修復していくのか、その手法は確立されていないようです。さらに言えば、どの状態に修復・復元すべきなのかという難問があります。建設当初の状態にするというのはないとしても、廃墟の状態を維持すべきなのか、あるいは人々が生活していたころの姿を復元すべきなのか。私たちが軍艦島の価値をどこに見出すのかによって答えは変わってきそうです。