国民健康保険の発祥地

日経新聞の電子版で、国民健康保険のルーツが福岡にあるという記事(「健康保険、江戸期の互助が源(有料会員限定)」を読み、散歩がてら訪れてみました。場所は福岡市からほど近い、福津市です。

こちらのコラム(「発足80年を迎えた国保の大改革」)によると、国民健康保険の発祥地とされている場所は福津市のほか、埼玉県越谷市、山形県戸沢村にもあり、それぞれ由来があるとのこと。共通しているのは、昭和の初期に当時の内務省社会局が農村の支援策として公的医療保険の整備を検討していた際、これらの地域にはすでに相互扶助の取り組みが存在していて、内務省はこれらを参考にしたということです。

福津市など宗像地区には定礼(じょうれい)という仕組みがありました。福津市の図書館で見つけた「やさしい福間町の歴史」によると、この仕組みは、医者に定まった収入を約束して無医村となるのを防ぎ、貧しい人でも治療代の支払いを心配しないで医者にかかることができるようにするために始まったもので、江戸時代後期の天保年間(1830~43)までさかのぼれます。
内務省が調査した昭和初期の定礼は、各家から玄米を集め、それを診療所の医者に差し出せば、1年間無料で治療を受けられました。村のほとんどの人が加入していて、豊かな人は多くの米を提供し、貧しい人は少しの米を出せばよかったとか。

同じ定礼でも地区によって多少の違いがありました。写真の石碑がある手光・津丸地区では、明治時代に地区の人々が米を出し合って村立の医院を作り、医者を招いたそうです。他にも次のような記述がありました。

「明治時代から昭和時代にわたる60数年間、定礼医として親子2代の医師が、貧しさに耐えて医療奉仕をしてくれました(畦町地区)」

「他のほとんどの地区には1人の定礼医がいたので、村人は自由に医者を選ぶことができませんでした。しかし、内殿地区は無医村のため、他の地区の好きな医者を選んで診てもらうことができました」「他の地区のように米を出し合って治療代を負担してもらうのではなく、お金を出し合った中から自分の治療代の3割を補助してもらい、残りは自己負担でした」

(いずれも「やさしい福間町の歴史」より)

定礼は村人どうしの相互扶助というだけではなく、医師の生活保障という面もあったと考えられます。国民健康保険のルーツの1つがこのような制度だったとは、大変興味深いですね。

※いつものように個人的なコメントということでお願いします。

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